私たちの健康管理がスマートフォンやスマートウォッチで行える時代が到来しています。医療とテクノロジーが融合することで、私たちの日常がどのように変わるのでしょうか。モバイルヘルスケアは、単なる未来の話ではなく、既に私たちの生活に浸透し始めています。
しかし、モバイルヘルスケアの普及にはまだ多くの課題が存在します。技術的なハードル、規制の壁、そして人々の認識など様々です。これらの障害を乗り越え、どのようにモバイルヘルスケアが医療の現場で活用され、未来の健康管理として活用されるのでしょうか。
今回は、モバイルヘルスケアの最前線を知る「立命館大学の林永周教授」にインタビューを行い、モバイルヘルスケアの可能性と課題について詳しく伺いました。
林 永周 / yeongjoo lim
立命館大学 経営学部 准教授
【プロフィール】
立命館アジア太平洋大学(APU) アジア太平洋マネジメント学部 卒業、立命館大学大学院テクノロジー・マネジメント研究科 終了。博士(技術経営)。2017年より立命館大学経営学部に着任。主な研究テーマは、アントレプレナーシップ、スタートアップ、モバイルヘルスケアなど企業の新規事業開発など。多くの企業と産学連携によるPBLを実施し、企業の問題解決や社会問題解決に取り組む。 これらの経験をもとに、最近は様々な分野での社会実装を目指している。
モバイルヘルスケアとは何か?
クリックアンドペイ(以下KL):はじめに、モバイルヘルスについて教えていただけますか。
林氏:モバイルヘルスは国や研究によって定義が異なる場合があります。ただ、共通する認識としては、携帯電話や患者のモニタリング装置、携帯情報端末などを使用して情報のやり取りを行い、医療及び医療行為を実施することと定義されています。
モバイルヘルスケアで重要なのは、何らかのデバイスを使用して生体情報の測定を行い、測定した生体情報を基に医療行為が実施されることです。この過程では、通信技術や5Gモバイルネットワーク、IoT(Internet of Things)などの技術が活用されています。
簡単な例を挙げると、携帯電話を使って毎日の歩数を記録し、記録された歩数データを医師に診療情報として共有することが、モバイルヘルスケアの一つとなります。
モバイルヘルスケアは分野により定義が異なります。例えば、日本では新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、オンライン診療が注目されるようになりました。携帯電話のビデオ通話機能を使用して顔を見ながら診断を行うことも、デバイスと通信技術を使用して医療行為を行うという点でモバイルヘルスケアの一種に分類されます。
各国のモバイルヘルスケア導入例
KL:次に、モバイルヘルスの効果や事例について教えていただけますか。
林氏: まず、モバイルヘルスケアは、導入される国の医療情報システムや規制の影響を強く受けます。例えば、日本では規制の影響により、モバイルヘルスの普及が進んでいませんが、アフリカなどの地域では、ワクチン管理に活用されています。アフリカでは、モバイルヘルスがワクチンの適切な運搬や接種状況の管理に使用されており、モバイルヘルスの有効性が証明されています。
また、韓国では国主導でモバイルヘルスケアの導入が進んでいます。地域の保健所に属する医師、看護師、薬剤師、栄養士などの専門家チームが、生活習慣病のリスクが高いと診断された人々の登録を行い、定期的なモニタリングを通じて健康管理を行っています。このような取り組みにより、体重減少や血圧の低下など、生活習慣病の予防効果が確認されており、研究では約半数以上の参加者が健康改善の効果を得ているとされています。
日本においては、アップルウォッチなどのデバイスを用いた心拍数や走行距離、消費カロリーの自己管理が普及しています。モバイルヘルスケアの導入により、これらのデータを医療行為に繋げることができ、より体系的な健康管理が可能になるでしょう。モバイルヘルスケアを活用することで、専門家からのアドバイスや指導を受けながら、包括的なアプローチによる健康改善効果が期待できるようになります。
モバイルヘルスケアの広がり
KL:なるほど、そもそもの話になりますが、モバイルヘルスケアとは、ウェアラブル端末による病気の早期発見や心拍異常の検出だけでなく、遠隔モニタリングや健康管理全般を指しているのですね。
林氏:はい、その通りです。モバイルヘルスケアの定義は視点により変わりますが、医療機関が情報を活用する方法も含まれています。例えば、自動的に収集されたデータを医師が見て、患者に食事や運動に関するアドバイスをメッセージで送ることも、一種の遠隔医療行為となります。
また、心拍データから通勤時の身体への負担を分析し、運動トレーナーがエレベーター使用を勧めるなども含まれます。つまり、医療を受ける側、提供する側、管理する側が、それぞれの立場でモバイルヘルスケアを活用できるのです。
健康な人であれば、ウェアラブルデバイスを使用した日常的なモニタリングが中心となります。睡眠の質、心拍数、運動量などの様々なデータが診断や健康管理の役に立つことがあります。
規制と課題—モバイルヘルスケア普及の障壁
KL:日本では規制の影響により、モバイルヘルスの普及が進んでいないとのことですが、モバイルヘルスケアの導入に関して、国による違いはあるのでしょうか。
林氏:多くの国が法律の緩和に取り組んでいる段階で、特定の国がモバイルヘルスケアの導入に最適というわけではありません。日本は法律の改定がやや遅れていますが、アメリカは近年急速に規制緩和を進めています。私が注目している韓国では、特区制度を設けて特定地域内での使用許可を与えるなどの取り組みをしています。
全体的に見れば、どの国もモバイルヘルスケアの導入が著しく進んでいるわけではありませんが、アメリカや韓国を含む多くの国が法整備の努力をしています。
KL:法律改定というのは、規制を緩和することを意味するのでしょうか。
林氏:必ずしも規制緩和だけが意味されるわけではありません。新しい技術や方法が登場すると、既存の法律がそれに適用できない場合があります。例えば、心拍測定に関する時間制限など、アナログ機器を前提とした規制がある一方で、新しいデジタル技術にはそぐわないケースが存在します。
例えば、ドローンは飛行機の一種でありながら従来の飛行機とは異なるため、当初は明確な規制が存在しませんでした。同様に、モバイルヘルスケアも既存のルールに完全には適合しない部分があるため、新しい通信技術や精度向上のための技術が、既存の規制と矛盾することがあります。
また、個人情報の管理に関しても、デジタル化の進展に伴い、新たな課題が生じています。特に、医療データは機密性が高いため、より慎重な取り扱いが求められます。
したがって、法律改定は単なる規制緩和ではなく、新しい技術や状況に対応するための包括的な見直しと調整が必要といえるでしょう。
KL:このような法律を作る際には、専門家のアドバイスが不可欠だと思いますが、専門家はどのように関わっているのでしょうか?
林氏:国立大学の研究者などが様々な形で指導を行っているとは思いますが、私自身はビジネス的な観点からアプローチしており、規制の必要性について言及することがあります。
一方で、医療の観点からは、既存のシステムが十分に機能しているため、新しい技術の導入に抵抗がある場合もあります。
例えば、新しい技術を導入する際には、既存のシステムから新しいシステムへの移行に伴うスイッチングコスト(時間、お金、労力など)が発生します。このようなスイッチングコストを払うかどうかが、導入の障壁になることもあります。
アメリカの例では、モバイルヘルスケアデバイスやアプリケーションの導入において、既存の委員会では十分に対応できないことを認識しているため、産業界に近い人材を新たに委員会に加えるなどして、制度の整備を進めているという事例があります。
モバイルヘルスケア実用化への4つの課題
KL: モバイルヘルスケア導入にあたり、法律や規制に関する問題点は数多くありそうですね。
林氏: はい、モバイルヘルスケアに関しては、世界共通の課題がいくつかあります。主に4つの大きな問題点が存在します。
- 医療情報の共有に関する法律の問題
個人情報保護法により、患者の個人情報を病院外に持ち出すことが厳しく規制されています。また、病院間でのデータ共有にも多くの障壁があります。病院ごとにデータベースシステムが異なるため、病院間でのデータの送受信や統合が困難です。 - 医療機器開発における規制の厳しさ
医療機器の開発には非常に厳しい規制が課されています。人体に関わる製品であるため、安全性の検証に膨大なコストと時間がかかります。例えば、薬の開発には約7年、医療機器でも2~3年の期間が必要です。このような長期にわたる開発期間は、急速に変化する技術トレンドに対応しにくく、市場機会を逃すリスクもあります。現状では、スマートフォンなどで測定される血圧や心拍などのバイタル情報は、医療目的では使用できず、個人の参考程度にとどまっています。規制の厳しさにより、新規参入する企業やスタートアップが医療機器市場に参入することが困難な状況です。したがって、現状では大手企業が時間をかけて開発を進めるしかありません。 - 非医療用ウェアラブルデバイスの性能と機能の問題
現在販売されている非医療用ウェアラブルデバイスは、医療基準を満たしていないため、精度が不明確だったり、具体的な数値を示さずにアラートのみを出すなど、機能的な制限があります。したがって、医療機器との間で精度の差が生じ、判断ミスを引き起こす可能性があります。私自身、労働環境改善のための研究プロジェクトで労働者の心拍データを使用していますが、医療用機器と開発したウェアラブルデバイスでは、数値の精度や細かさに差があることを実感しています。また、医療用機器は電源や大きさの制約が少ないため、多くの機能を搭載できますが、ウェアラブルデバイスは小型化やバッテリー容量の制約があり、機能面で限界があります。 - データ共有と専門知識の不足
デバイスを製造する企業と医療機関の間に、データ共有のプラットフォームが構築されていないため、取得したデータを病院に適切に提供する仕組みが整っていません。また、医療機関側もデータの意味を正確に把握することが難しい状況です。したがって、モバイルヘルスケアに関する専門知識やノウハウの蓄積が進まず、全体的な医療の質の低下や人材不足につながっています。
モバイルヘルスケアは、従来の「診断→治療→管理」という流れを変え、日常的なモニタリングによる病気の予防や早期介入を重視しています。例えば、体重増加の傾向から生活習慣病のリスクを予測し、運動を促すなど、病気の予備軍の段階からの介入を目指しています。
日本の介護問題、特に寝たきり問題に対しても、モバイルヘルスケアは有効な解決策となる可能性があります。一人暮らしの高齢者の日々の活動量や食事を管理し、アドバイスを提供することで、寝たきり予防や自立支援につながると考えられています。
発展途上国と先進国のモバイルヘルスケア普及の可能性
KL:モバイルヘルスケアの普及に関して、 先進国では既に整備された環境があり、データベースの違いや扱うデータの種類の違いなど、さまざまな障害があると考えられます。そうであれば、むしろ既存のシステムがない後進国や途上国の方が、モバイルヘルスケアの発展可能性が高いのではないでしょうか。
林氏: その可能性は確かにあります。既存の制度を改善することは非常に難しく、日本でクレジットカードの普及が遅れているのと同様に、既存のシステムから新しいシステムへの移行には多くの抵抗があります。
一方、何もない状態から新しいシステムを導入する方が、人々のニーズに直接応えられるため、普及が早い傾向があります。例えば、アフリカのような地域では、遠隔医療システムの導入が人々に歓迎される可能性が高いでしょう。
ただし、ビジネスの観点から考えると、必ずしも発展途上国が有利とは限りません。先進国の方が、特に高齢者ケアの分野において大きな市場があると考えています。というのも、先進国では介護費用が医療保険制度を圧迫しており、モバイルヘルスケアによる改善の余地が大きいからです。
モバイルヘルスケアによる介護問題へのアプローチ
KL: 規制の問題、技術的な課題、そして情報共有の不足など、多岐にわたる課題があることがよくわかりました。それでは、先生がモバイルヘルスケアの新しいサービスや機能を開発するとしたら、どのようなものを考えますか。
林氏: モバイルヘルスケアの普及も考慮すると、日本の社会問題である介護問題に焦点を当てることが重要だと考えています。特に、一人暮らしの高齢者の孤独死は重大な課題です。
現在、いくつかの改善策が実施されています。例えば、ベッドにセンサーを設置して高齢者の動きを把握したり、コミュニケーションロボットを使用して薬の服用確認や食事摂取、認知症予防のための声かけを行うことができます。これらのデータを家族や医療機関と共有することで、食事の摂取不足や反応の異常を早期に発見し、直接訪問しなくても効果的なケアが可能になります。
都市部では人口密度が高いため効率的な訪問が可能ですが、地方や過疎地域では一軒一軒の距離が離れているため、効率的な訪問は困難です。このような地域でこそ、遠隔モニタリングによる患者管理が省エネルギーで効率的なケアにつながると考えています。
すでに韓国では、新型コロナウイルス感染症対策として、同様の遠隔モニタリングシステムが活用されています。感染者を特定の施設に収容し、各部屋にモバイルデバイスを設置して、遠隔地の病院のコントロールセンターで看護師と医師がモニタリングを行い、現場のスタッフに指示を出す体制が整えられています。
また、発展途上国では、ワクチン管理にモバイルヘルスケアの活用を考えています。医療関係者がモバイルデバイスを使用して、ワクチンの在庫管理や適切な配布、地域への普及率を管理するシステムが有効でしょう。
私たちがモバイルヘルスケアを通じて目指す未来は、日常生活を変えずに健康的な生活を送れることです。特に、30代~40代の男性は忙しさから病院への受診を後回しにしがちで、早期発見・早期治療の機会を逃すことがあります。
病院に行くという行為自体が非日常的で、時間を取ることや周囲の目を気にすることが障壁となっています。モバイルヘルスケアが普及すれば、昼休みなどの隙間時間を利用して遠隔で医師の診療を受けられるようになります。
ウェアラブルデバイスやスマートフォンで日々測定したデータを医師と共有し、総合的な判断を受けることができます。モバイルヘルスケアの導入が進めば、病院がより身近で行きやすい場所となり、早期の健康管理が可能になります。
また、事前に患者の生活習慣や健康状態のデータがあることで、不必要な検査を省略し、コストや時間の削減にもつながります。このような日常生活に溶け込んだヘルスケアサービスが、モバイルヘルスケアの未来として期待できると考えています。
ウェアラブル端末の未来
KL: 最後に、ウェアラブル端末について伺いたいのですが、先生がおすすめの、今後普及しそうな端末はありますか?
林氏: 現段階では、腕時計型のデバイスが最も普及しやすいと考えています。指輪型のデバイスもありますが、時計型の方が好まれる傾向にあります。将来的には、パッチのように簡単に貼り付けられるタイプのデバイスやコンタクトレンズのようなデバイスも登場するかもしれません。
ただし、モバイルヘルスケアデバイスの形状や機能は、診断したい病気によって異なります。例えば、糖尿病患者の血糖値測定や血圧測定、心電図測定などをモニタリングするためには、測定するためのアルゴリズムが腕時計型や指輪型だけでは不十分な場合があり、どのようなデータをどれぐらいの頻度で、どれほど正確に測定したいのかによって、目的に応じて最適化されたデバイスが開発されています。
一般的に日常生活で利用されることを想定した腕時計型や指輪型のデバイスは、病院での詳細な診断の代替にはなりませんが、日頃の変化の傾向や緊急時の簡易診断、救急車内での初期診断などに活用できる可能性は十分にあります。ただ、個人利用としては、現時点では腕時計型のデバイスが日常生活に一番馴染みがあるので最適だと考えています。