職場でのメンタルヘルス問題が増加している現代。職場でのストレスが業績や生産性に直接的な影響を及ぼします。実際、日本の総務省の調査によると、約半数の労働者が職場でストレスを感じています。このようなストレス問題に対処するためにも、メンタルヘルスケアの重要性を理解し、職場全体での取り組みが必要です。
この記事では、一次予防としての「心理的安全性」の確保や、「組織開発」による人間関係の改善といった実践的なアプローチについて京都文教大学の多湖雅博先生に教えていただきます。企業が採用できるメンタルヘルスケアの具体的な手法や、生産性向上につながる可能性のある仕組み作りを詳しく伺いました。
多湖 雅博 / masahiro tagoo
京都文教大学 総合社会学部 講師
【プロフィール】
組織開発を中心に、マネジメントやリーダーシップ、職場のメンタルヘルスなどを研究しており、従業員と企業がWin-Winの関係を築ける組織を経営学の視点から考察している。著書に『経営理念・経営ビジョン/経営戦略』(日本医療企画)、『職場の経営学:ミドル・マネジメントのための実践的ヒント』(中央経済社)、『対話型組織開発(AI)を用いた活き活き社員のつくり方』(パブファンセルフ)などがある。
メンタルヘルスケアの3つの柱 予防と対策
クリックアンドペイ(以下KL):メンタルヘルスケアに関して質問をさせていただきます。まず、メンタルヘルスケアのやり方や種類について教えていただけますか。
多湖氏:メンタルヘルスケアについて、一般的に言われているのは一次予防、二次予防、三次予防という考え方です。これらを合わせて予防と呼びます。
- 一次予防は健康の保持増進や健康障害の防止など、本来の予防のことを指します。
- 二次予防は、健康不全の早期発見や早期対応を意味します。
- 三次予防は、社会復帰や職場復帰の支援、再発の防止などを指します。
日本の職場では、これらの予防方法が採用されています。ただし、本来の予防は一次予防のみです。二次予防と三次予防は、既に健康問題が発生してからの対処方法といえます。
したがって、一次予防により力を入れる必要があると私は常々感じています。厚労省も、ストレスチェックなどを導入しているため、一次予防を強化しようとしているのではないかと考えています。
その他、セルフケア、ラインによるケア、産業保健によるケア、外部資源によるケアなどの方法もあります。これらの方法を一次予防、二次予防、三次予防に組み込んで実施することが重要だと考えています。
一次予防の重要性 問題発生前の環境づくり
KL:一次予防をさらに強化していく必要があるとのことですが、一次予防についてもう少し具体的に教えていただけますか。
多湖氏:実際に、日本の企業では二次予防と三次予防にはかなり力を入れていますが、一次予防にはあまり力を入れていないのが現状です。
職場でのメンタルヘルス問題の大きな要因として、人間関係の問題があります。しかし、人間関係の改善方法については、挨拶を励行する程度の対策しかできていないのが現状です。
私たちの研究では、組織開発という手法を使って、人間関係そのものを改善するのではなく、関係性の質を向上させることに取り組んでいます。最近注目されている「心理的安全性」を高めることで、メンタルヘルス問題が発生しにくい環境作りを目指しています。
「心理的安全性」を高める方法が絶対的な正解かどうかは断言できませんが、一次予防の一つの取り組み方として進めています。
メンタルヘルスケアの新しいアプローチ
KL:では、組織開発という手法は、一次予防、二次予防、三次予防のどれに該当するのでしょうか。
多湖氏:私が実施している組織開発の中でも、特にAppreciative Inquiry(AI)という手法は一次予防に該当すると捉えています。AIは人工知能ではなく、組織開発の手法の一つです。
二次予防や三次予防は、メンタルヘルス問題が発生してからの対処法で、主に精神科などの医療分野が担当します。一方、組織開発は問題が発生する前の段階、つまり一次予防に焦点を当てています。
ただし、組織開発の手法は二次予防や三次予防の段階でも活用できる可能性はあります。例えば、メンタルヘルスに問題を抱えている人への対応や、職場復帰の支援などにも応用できるかもしれません。
しかし、組織開発は根本的には関係性の質を高めることが目的なので、主に一次予防に分類されます。二次予防や三次予防では、産業保健分野や医療分野で行われる認知行動療法などが一般的です。
認知行動療法は個人の考え方を変えることに焦点を当てていますが、周囲の環境が変わらなければ効果が限定的になる可能性があります。私自身、以前病院で働いていた経験から、環境を変えることの重要性に気づき、環境の分野の研究を始めました。
KL:個人が健康な状態から問題を抱える状態に移行する境界線は曖昧で、専門家でも判断が難しいと思います。先生の組織開発というアプローチは、個人よりも環境に焦点を当てて予防に取り組む分野ということでしょうか。
多湖氏:おおむねその通りですが、組織開発は環境というよりもチームや集団、組織全体に焦点を当てています。人間関係や組織の環境を改善することで、メンタルヘルス問題の予防を目指しています。
メンタルヘルスケアがもたらす経済効果
KL:では、次にメンタルヘルスケアの重要性について、さらに詳しく教えていただけますか。
多湖氏:メンタルヘルスケアは身体的な健康と同様に重要です。心身ともに万全な状態でなければ、人間は100パーセントの力を発揮できません。メンタルヘルスは生産性、欠勤率、離職率などに関連しているため、企業や組織にとって、メンタルヘルスに問題を抱える従業員が多ければ多いほど、損失は大きくなります。
メンタルヘルスは、「アブセンティーイズム(病気欠勤)」や「プレゼンティーイズム(出勤はしているが生産性が低い状態)」といった問題にも関連しています。従業員が万全の状態で力を発揮できる環境と比較すると、メンタルヘルスの問題がある状態は明らかに好ましくありません。
また、メンタルヘルスの問題は職場の雰囲気にも大きな影響を与えます。個人レベルの問題が周囲に波及し、職場全体の空気が悪くなることがあります。「感情は伝播する」という言葉があるように、良い意味でも悪い意味でも影響は広がります。少数個人の問題だったものが、会社全体や職場全体に広がり、さらに生産性を低下させる可能性があります。
KL:メンタルヘルスケアの効果を測定するための方法はあるのでしょうか。
多湖氏:メンタルヘルスに関しては、私たちは「ワークエンゲージメント(仕事に対し前向きでやる気に満ちた状態)」というアンケート調査をよく実施します。ただし、研究用であり、調査結果を公表すると回答者が気を使ってしまう傾向があるため、あまり表には出せません。
私が担当している会社では、ストレスチェックもいくつか実施していますが、組織開発を行ったところと行っていないところでは明らかな差が見られます。統計的な有意差までは調べていませんが、数字では表せられないような職場の雰囲気の変化を職場の方々は実感しているようです。ある程度の効果を実感しているからこそ、組織開発のリピート依頼も多い状況です。
KL:メンタルヘルスケア対策を行った場合の経済効果について、数値的なものはあるのでしょうか。
多湖氏:経済的効果、特に売上などの直接的な数値との関連を測定した研究はあまり知りません。経営学の分野では、「財務的パフォーマンス」と「非財務的パフォーマンス」という概念があります。「財務的パフォーマンス」は売上などの数字やお金に現れるもので、「非財務的パフォーマンス」はモチベーションなどを指します。メンタルヘルスケアは「非財務的パフォーマンス」の一つとして捉えられます。
ワークエンゲージメントは最近、経営学の分野でも注目されています。ワークエンゲージメントが向上すると、組織行動の分野におけるパフォーマンスが向上するというデータが世界中で発表されています。このようなデータから、ワークエンゲージメントが間接的に「財務的パフォーマンス」に影響を与える可能性があるともいえるでしょう。
KL:先生が関わった事例の中で、明らかに生産性が上がったと実感したものはありますか。
多湖氏:明らかな変化が見られたのは、ある会社の研究開発部門での例があります。最初に訪問した時は、誰一人として挨拶をせず、皆が下を向いて歩いているような状況でしたが、組織開発によるアプローチにより、明らかに職場の雰囲気が変わったのが印象的でした。
また、私の場合、病院を対象とすることが多いのですが、看護師の離職率が大幅に減少したという話をよく聞きます。ただし、数字に換算するのは難しい面もあります。
KL:先ほど認知行動療法について言及されましたが、具体的には問題のある個人に対して行うのか、それとも組織全体に対して行うのでしょうか?
多湖氏:私たちのアプローチは組織全体を対象としています。ただし、認知行動療法などの個人へのアプローチを否定しているわけではなく、理想的には並行して行うべきだと考えています。個人の苦痛を軽減することも重要ですが、そもそもそのような状況に陥らないような「環境や職場づくり」ができればよいと考えています。
KL:組織全体に対して具体的にどのようにアプローチしていくのかを教えていただけますか。
多湖氏:私たちが行っている組織開発では、問題解決ではなく、強みを伸ばすアプローチを取ります。参加者がそれぞれの強みを共有し、共通の目的を考え、目的に向かって進んでいく過程を私たちがファシリテート(進行を円滑にサポート)します。
従来の問題解決型のアプローチと比べると時間がかかりますが、従業員同士の対話や会話を重視します。お互いを知り、理解を深めることも裏の目的としています。
具体的にはまず、暗黙のうちに職場で認識されている問題に対し、問題が解決した理想的な状態をテーマとして設定します。設定したテーマに基づき、どのようにすれば理想的な状態に近づけるかを参加者全員で考えます。
このようなアプローチは、マイナスをゼロに戻すのではなく、現状からさらにプラスの方向に進むためにはどうすべきかという観点で会話を進めます。私たちの役割は、参加者の対話をコントロールし、適切な方向に導くことです。
職場におけるメンタルヘルスの実態
KL:そもそも、企業においてメンタルヘルス問題を抱えている人は、どの程度いるのでしょうか。
多湖氏:世界のデータを見ると、職場におけるメンタルヘルスの問題を抱えている人の割合は10〜13%程度と言われています。しかし、実際はもっと多いのではないかというのが正直な印象です。
日本のデータを見ても、例えば総務省が発表しているデータによると、大体半数前後の人がストレスを感じているとされています。こうしたストレスがメンタルヘルスの問題に繋がっていくことは、容易に推測できます。
ただし、厚労省のデータによると、企業内でメンタルヘルスの問題を抱えている人は5〜10%とも記載されています。しかし、5〜10%という数字は低すぎるように思います。
このような違いが生じるのも、メンタルヘルス問題をどのように定義するかにより変わるからだと考えられます。また、企業を通じて調査を行う場合、従業員が自分の状態を会社に知られたくないという思いから、実際よりも問題を軽く報告する傾向もあるでしょう。
実際に私たちが見ていると、基準をどこまで下げるかにもよりますが、プライベートの問題も含めた場合、半数ぐらいの人が何かしらメンタルヘルスに不調を抱えているように思います。
ただし、どこまでを不調ととらえるかによっても、メンタルヘルスに不調を抱えている人の数字は変わってくる可能性があります。仮に診断が必要なレベルの不調とした場合、確かに5〜10%ぐらいになるかもしれません。
効果的なメンタルヘルスケアは小さな一歩から
KL:メンタルヘルス問題を抱えている人の割合を減らすための多湖先生なりの対策方法があれば教えていただきたいです。
多湖氏:対策としては、お互いにコミュニケーションを取り合うことが大切だと考えています。「心理的安全性」を確保することも重要です。
しんどいことを一人で抱え込むと、悪い方向に進みがちです。まずは誰かに話すことが大切だと考えています。職場の問題であれば、職場のことを知っている人に話をすることで、共感や承認を得られる可能性が高くなります。
また、組織開発や解決志向アプローチなど、問題解決に焦点を当てたコーチングのような手法を用いることも効果的です。
KL:実際に、皆さんが求める職場環境とはどのようなものなのでしょうか。
多湖氏:職種によっても異なりますが、例えば研究開発部門では、納期がないことが一番の希望として挙げられることがあります。焦らされることなく、もっといいものを出したいという思いがあるようです。
結局のところ、自分の仕事をもっと楽しく、生き生きと働きたいというのが多くの人の願いです。
病院の場合であれば、患者さんたちがよりよく過ごせるようにというような目標も出てきます。おそらくサービス業でも同じような傾向があるかもしれません。このように職種によって違いはありますが、いずれの場合も、元気に楽しく明るく働きたいという希望が多いです。
KL:従来のアプローチに比べ、改善には時間がかかるとのことでしたが、具体的にどのくらいなのでしょうか。
多湖氏:現在よく行っているのは、平均的に6時間程度のプログラムです。6時間を一日で行うのは難しいので、多くの場合、2時間ずつを1週間に1回、もしくは2週間に1回くらいのペースで段階を踏んで進めていきます。
そして、最終段階では参加者自身が立てたアクションプランを実際に実行してもらうという形を取っています。その後、様子を聞いたり、場合によっては1ヶ月後に一度集まってもらって進捗状況を確認したりすることもあります。
また、アクションプランは自分たちで立てて実行するのですが、「やらされ感」が出ると、ストレスになってしまう可能性があります。そういう場合、もっとシンプルなものに変更することを提案します。
例えば、ある職場では休憩時間にみんなでお茶を飲もうという案が出たのですが、誰がお茶を持ってくるのかという点で頓挫してしまったこともあります。結局、アクションプランとして最も多いのは、挨拶を徹底するといったシンプルな取り組みです。
最近の研究では、3ヶ月から半年くらいすると、やる気や積極性の低下が見られる傾向にあります。人の入れ替わりもあるかもしれませんが、最初の頃の勢いは確実になくなっていきます。
したがって、仮説レベルですが、半年に1回くらいの頻度で継続的に関与していく方が良いのではないかと考えています。
KL:やる気や積極性が低下するような時期に、アドバイスなどされるのでしょうか。
多湖氏:アドバイスというよりも、参加者自身で答えを出してもらえるようにしています。こちらからあまり言い過ぎると、やはり「やらされ感」が出てしまうからです。
「やらされ感」がでないよう、何らかの関わりが必要となると思います。「やらされ感」がでてしまうことに対しては、今のところこれといった対処方法はありません。今後の課題となっています。
KL:実際に先生が見た事例で効果的だったアクションプランを紹介していただけますか。
多湖氏:やはり先ほども触れた「挨拶」に関するものが効果的でした。最初は、人間関係やコミュニケーションに関するより細かい取り組み、例えば「他の人のいいところを褒める」といったことも行っていたグループもありましたが、このような取り組みは最初は良くても、だんだんと参加者の負担になってしまし、逆に顔を合わせないようにしようという本末転倒な状況になることがありました。
挨拶というシンプルな取り組みでも、挨拶をすること自体にプラスの効果があるという研究も存在してます。挨拶からコミュニケーションが活性化されたという事例もあります。
ある病院では看護部門と理学療法(リハビリ)部門は同じ患者さんに対するケアをするにもかかわらず、あまり関わり合いがありませんでした。そこで、まずはお互いに挨拶することから始め、共通の患者さんがいた場合、患者さんについての話をするという取り組みを始めました。
最終的には、病棟の看護師さんのカンファレンスに理学療法士さんが参加したり、逆の場合もあったりと、部門間の連携が密になったという報告もあります。
KL:組織内で一つの集団として凝り固まってしまうと、停滞を招き悪い結果につながる可能性もあると思います。組織開発において、組織内の停滞を防ぎ、流れを良くすることは重要だとお考えでしょうか。
多湖氏:確かに、組織内の流れを良くすることは重要だと思います。組織開発では、職場のソフトな部分、つまり厳格な規則やルールを含まないような柔軟な部分へのアプローチが得意だということもあり、新しい風を入れ、流動的にするという意味でも役に立つと考えています。
挨拶がどれだけ会社にとってプラスになるのかを現在調査中で、まだ確定的なことは言えません。ただ、教育業界、特に小学校や中学校では、挨拶が重要な役割を果たすという研究は多くあります。
確かに、挨拶なしでいきなり話しかけるのはハードルが高いといえるでしょう。しかし、挨拶を会話の入り口として捉えることができれば、より高い効果が期待できるかもしれません。
長期的視点でメンタルヘルス対策を
KL:最後の質問になりますが、読者の中には起業家が比較的多いです。そういった起業家の人たちに対してアドバイスをお願いいたします。
多湖氏:メンタルヘルスに関して言えば、メンタルヘルスの重要性を頭では理解していると思います。しかし、特に起業したばかりの企業では、目先のお金に関することや様々な無理をすることがあると思います。メンタルヘルスに関しては理解とともに、実際に会社の取り組みの中に何かしらのプランを入れておいてほしいと思います。
このような取り組みが、長期的に見るとプラスになる可能性は高いと思います。今は必要ない場合でも、将来的なことを考えたとき、生産性を維持しようと思ったら、メンタルヘルスの取り組みを理解しつつ、実践することが重要だといえるでしょう。
したがって、なぜメンタルヘルスが大事なのかということは、起業家の皆さんとともに、企業で働くすべての人に知っておいていただきたいことです。そして、何か問題があれば一人で抱え込まずに、誰かに相談することもしてほしいと思います。